紅白歌合戦

■昭和20年12月31日「紅白音楽試合」

■紅白と裏番組

昭39 72.0(▲*9.4) *8.6 てなもんや三度笠「東海道超特急シリーズ」

昭44 69.7(▲*7.2) 10.9 なつかしの歌声 年忘れ大行進

昭57 69.9(▲*5.0) 11.2 ㊙必殺現代版「主水の子孫が京都に現れた 仕事人VS暴走族」

昭60 66.0(▲12.1) 15.3 忠臣蔵 後編

昭61 59.4(▲*6.6) 17.2 白虎隊 第2部「落城の賊」

平15 45.9(▲*1.4) 19.5 K-1プレミアム2003 人類史上最強王決定戦 Dynamite!!

平16 39.3(▲*6.6) 20.1 K-1プレミアム2004 人類史上最強王決定戦 Dynamite!!


第20回(昭44)は、東京12チャンネル「なつかしの歌声」が紅白裏番組として視聴率二桁

特筆すべきは、NHKに残る最後の白黒放送の回

(第16回に一部カラー映像、第21回に白黒映像もあり、本放送は第15回からカラー放送)

という事と、「8時だョ!全員集合」放送開始から約3ヶ月後のドリフの出演であろう

第20回、第22回が昭和紅白で初の地上波再放送となったが、

白黒時代の終焉(ドリフのブレイク前夜)、カラー時代の到来(ドリフのブレイク直後)

という事で、大阪万博を間に挟んでの象徴的な2つの回だった

NHKにマスター・テープという完全な放送録画の保存が無い最後の回が第22回である


昭和44年10月4日 「8時だョ!全員集合」初回視聴率12.9%

昭和46年1月23・30日 「8時だョ!全員集合」視聴率50.4%


1969.12.31 第20回NHK紅白歌合戦

1970.03.14 73日後、大阪万国博開会式


2025.02.11 第20回NHK紅白歌合戦(再)

2025.04.12 60日後、大阪万国博開会式


阪神優勝の2003(平15)年まで歌詞テロップを後付けしてBS再放送されていたが、

今回地上波再放送に當り、歌詞テロップを付けないのが良かった

本放送のまま流そうという意図が感じられる

それにしても、日本で一番最後に流す番組だけに70%以上は当たり前

高視聴率番組だからと言ってきちんと保存するという概念は無かったのだろう


・鈴木文弥、御年46歳が70代の爺さんに見える

・高木ブーの顔が「やす子」過ぎた 仲本工事が大オチなのが貴重

・本田路津子さんだけが令和感がある

・都はるみ、普通に童顔アイドルだった キチガ○ファンの声援凄かった

・水原弘が大谷にちょっと似てた

・チータは同性人気(男性人気は、ありそうじゃない)


歌番組は歌手が主役であり、CMの無いNHKは芸人の応援がトイレ・タイムである

「紅白歌合戦ウラ話」を読むと、当時の紅白は出場歌手選考に相当シビアだった事が分かる

一方で、ヒット曲の出ていなかった美空ひばりに対しては、

「今年も大トリは、ひばりさん以外考えられません」と、

NHKが声明を出して当然の様に大トリ


■6年連続大トリ

昭42 *2万枚 芸道一代

昭43 *3万枚 熱祷

昭44 **万枚 別れてもありがとう

昭45 *1万枚 人生将棋

昭46 **万枚 この道をゆく

昭47 *5万枚 ある女の詩


■紅白落選年の10万枚超え

昭55 14万枚 おまえに惚れた

昭57 15万枚 裏町酒場

昭62 21万枚 みだれ髪

平元 41万枚 川の流れのように


「第22回NHK紅白歌合戦」wikiより

・・・美空ひばりは10月に行われた大阪梅田コマ劇場での1ヶ月座長公演初日を前にした記者会見で「もう2度と紅白の司会をやろうと思いませんね。ヒット歌手じゃないと出場資格がないらしいけれど、それなら私も出られないんじゃないの? 去年の出場メンバーを見て、びっくりしちゃった。当然入らなきゃいけない人が、あの人もこの人も落ちている……こんな人がと思うような歌手が入ってくるでしょう。まともに歌っていられない。こんな紅白には出る気はしません。今年は辞退しようかと思っています」と述べ、・・・(中略)・・・小林旭(ひばりの元夫)は「ついてくるかい」がヒットしたが、初出場ならず。


■漢数字全盛時代

第20回

  青江三奈 千昌夫 春日八郎 三田明 菅原洋一 坂本九 島倉千代子

  三波春夫 弘田三枝子 美川憲一 舟木一夫 北島三郎 森進一

第22回

  美川憲一 坂本九 青江三奈 五木ひろし 舟木一夫 島倉千代子

  北島三郎 菅原洋一 千昌夫 三波春夫 弘田三枝子 森進一

果耶紅白からちょうど50年前、

唯一「果」の付く朝ドラ主演「山口果林」が抜群に美人だった

昭40 審査員に松下電器社主・松下幸之助

昭47 最後の東京宝塚劇場

昭59 驚愕の視聴率78.1% 日本歌謡の分水嶺、第35回NHK紅白歌合戦

キャスター辛坊治郎氏(66)が、ニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」(月~木曜後3・30)に生出演し、NHK紅白歌合戦で忘れられないシーンについて語った。番組では、昨年大みそかに放送された第73回紅白歌合戦の第2部の平均視聴率が、35・3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、過去最低だった21年から1ポイント増だったことを伝えた。辛坊氏は年末年始に台湾へ行っており、紅白を生で見ていなかったそうで、「誤差の範囲内ですから、長期低落傾向に歯止めかからずという表現が恐らく一番適切なんじゃないかと思います」と分析した。そんな中、辛坊氏は過去の紅白の平均視聴率についての資料に着目。「直近で高かったのが、50年も60年も前には80%台はあったのですが、1984年、78・1%。都はるみラストステージ。ここからぐっと80年代後半に下がっていく」と紹介した。84年の紅白は、引退を発表していた演歌歌手・都はるみが最後のステージに臨んでいた。しかし、その舞台で、辛坊氏も忘れられない出来事が起きていた。「80年に局に入って、84年にはテレビというか放送の仕事をしていましたので、あの時のアナウンサーの失敗というのは、すごく身につまされる、ぞくっとする感覚が」。総合司会を務めたアナウンサーが、都を「美空…」と呼び間違えてしまったことに言及した。「都はるみさんのラストステージで、紹介する一番、聞いているところで、都はるみさんを“美空”と言った瞬間に血の気が…私も引きましたけど、本人の血の引き方は想像できるんですよ」と、失敗したアナウンサーに同情した。80%近くの視聴率だった番組で起きたことだっただけに、当時は大きな話題になった。辛坊氏は、「別にこれを言ったからといって、誰かが死ぬわけじゃないし、大きな不祥事でもないし。謝るべきっちゃ謝るべきだけど、社会的混乱や命にかかわるような間違いではない」としつつも、「この曲で絶対にやっちゃいけない痛恨のミス。だけど、分かるんだわ。すごいプレッシャーの中で国民の8割が見ている、視聴率78・1%ですからね。8000万人くらいが見ている中で、“美空”って、一番やっちゃいけない失敗をするっていう気持ちが、痛いほど分かった」とコメント。「自分が失敗したわけじゃないけど、生涯あの時のゾクッとした感じは忘れないんじゃないかなと思います」と振り返っていた。

1985/1/12付 讀賣新聞 放送塔から

年末年始の番組で、朝刊「放送塔」に飛び抜けて反響が多かったのは、NHKテレビ「第35回紅白歌合戦」だ。計七十二通で例年の約三倍。うち、拍手の声は十二通と少なく、衣装やセットの楽しさ、うわさのカップルを対抗させた柔軟な企画など全体の評価が主だが、あと六十通はすべて批判的なのも珍しく、それぞれの投書が問題点を一つ一つ数えあげている。

筆頭は鈴木健二アナに対する二十一通。

「チンドン屋のような衣装で芝居がかって出しゃばり何が気配りか」

「都はるみへの独り合点のアンコール強要など不快」

「はしゃぎ過ぎが他の人のとちりまで誘い出した」

「自分のワンマンショーではない」等々だ。

次に、都はるみの扱いについては賛否各八通だ。

「最後に歌わせて引退に花も添え、番組も盛り上げた」の拍手の声に対し、

批判論は「ヒットもある大物の引退だからトリを歌わせれば金盃は当然だし、紅組に票も入ろう。しかし制作陣のはるみへの思い入れが過剰で、涙でベタベタした舞台にうんざりした。まるで、はるみ大会。公平を欠いた」と厳しい。

沢田研二が映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の画面に似せ、ピストルで撃たれたように衣装から血のりを噴き出させたのに対しても、賛否各五通。

「ジュリーは聴かせるだけでなく見せた。立派」に対し、

「やり過ぎ。踊り手の衣装にも血がはね、舞台も汚した」。

司会の森光子が男性歌手が歌う時に女性歌手を紹介しかけ、細川たかしが歌詞を間違え、最後の締めくくりで生方恵一アナが「都」を「みそら」と言いかけるという〝とちり大会〟で「なってない」の声も多かったが、「興奮状態の中、大目に見よう」という擁護論も少なくなかった。しかし「このとちりで、いやみが救われた」の指摘もある。視聴率(ビデオリサーチ)は過去十年で最高の78・1%だったが、問題個所が〝力〟を発揮したようにも思える。(武)

時代により1世帯あたり人口が異なるので、世帯視聴率では現在と過去を平等に比較出来ない

東京都の1人だけ見た世帯と、全員が見た世帯が半分ずつあったと仮定し、

個人視聴率を出した

ちなみに、平均視聴率は、

・第14回NHK紅白歌合戦 世帯81.4% → 個人52.4%

・第23回NHK紅白歌合戦 世帯80.6% → 個人54.8%

・2002FIFAワールドカップTM 日本×ロシア(試合後半)世帯78.0% → 個人56.7%

毎分最高視聴率は、

・第14回NHK紅白歌合戦 五月みどり 世帯85.3% → 個人54.9%

・第35回NHK紅白歌合戦 都はるみ 世帯84.4% → 個人58.5%

・2002FIFAワールドカップTM 日本×ロシア 世帯81.9% → 個人59.6%

となり、W杯サッカー歴史的初白星の瞬間が紅白を超えてTV史上最高

「あさが来た」高視聴率

「半沢直樹」は良くも悪くも、芸能界のドンの意向が全てのドラマである。ドンとは言うまでもなく、主演の堺雅人(46)が所属する田辺エージェンシーの田邊昭知社長(81)だ。「ザ・スパイダースのドラムでリーダーだった田邊さんは、他にドンと呼ばれる芸能界の超大物よりも作り手としてのこだわりがあります」

と話すのは、TBS関係者。

「堺雅人さんが主演する『半沢』もご多分に漏れず、シーズン1では視聴率がうなぎ登りになって社会現象になるにつれ、ドンの思い入れも強くなっていきました」

それは監督を務めるTBSの福澤克雄氏にとっても同じで、

「ジャイさん(福澤氏の愛称)は表に出て半沢についてあれこれと語ったんですね。それが田邊さんは気に入らなかった。ジャイさんが“半沢はオレのドラマだ”とベラベラ喋っているようにとらえてしまったんです」

「本来なら、シーズン2は1が終わった2年後の2015年にやる予定だったんですが、ドンの機嫌を損ねた結果、どんどんズレて行くことになります」

「その間、堺雅人さん主演で『医療ものドラマ』をTBSから提案したものの、フラれています。世間でも、“いよいよ半沢が”というような報道が繰り返されたと思いますが、TBS内部では、ヘソを曲げてしまったドンを“どう気持ちよくさせるか”に腐心してきたわけです」

そんな中、転機が訪れた。芸能関係者によると、

「所属タレント タモリの『笑っていいとも!』が2014年に終わったのが大きいようですね。その後に同じフジテレビでやった『ヨルタモリ』も短命で終了しました」

「NHKの『ブラタモリ』は好評ですが、帯でもなく断続的な展開ですし、NHKだからギャラの面では多くは望めない。要するに、帯番組とかお茶の間の顔となる番組を失ったりして、田邊さんとしてもあんまり無理は言えなくなっていったということでしょう」

「田辺エージェンシーで『通常稼働』しているのは、堺雅人、夏目三久、そしてタモリです。夏目の『あさチャン!』は数字がずっと悪いと言われている中でTBSとしては彼女を切る判断がないわけではなかったけれど、『半沢2』実現のためにそんなことは絶対できなかった」

その一方で、

「田邊さんとしても、あんまり無理ばかり言うと得られるものも得られなくなるということなのかもしれません。それで『半沢2』にゴーサインが出たと聞いています」

「それでも、夏目三久がセリフなしで出演するあたり、夏目をネコ可愛がりする田邊さんらしさが出ていて、よく言えば昔の芸能界風、悪く言えば傲慢さが見て取れますね」

今回の「半沢2」は「1」には及ばないものの、他のドラマを圧倒する視聴率をたたき出している。当然「3」は想定の範囲内だろう。


朝ドラが「その他」部門で年間1位となるのは、「ええにょぼ」以来22年ぶりであり、

それは半沢2のラッキーな制作中止によるものであった

「ええにょぼ」主演の戸田菜穂は、「なつぞら」主人公姉妹の母親役として、

また朝ドラ・レジェンド・ヒロインとして、「なつぞら」に出演を果たした

「なつぞら」において、清原伽耶が一時的に主人公となった週でもあるが、

その週で1回のみの出演であった

「ええにょぼ」戸田は、清原初主演「透明なゆりかご」同様、看護師の役であり、

「なつぞら」戸田は、「あさが来た」清原同様、女中をしていたという経歴を持つ

なつ「女将さんが、それ(天丼)をつくってた母に似てたから」

かく言う広瀬(なつ)は、父であるウンナン内村に似ているキャスティングだと思った

誰も文句がつけられない歌い納め(大トリ)となった楽曲は、以下の5曲ぐらいだろう

昭39 美空ひばり「柔」(195万枚)     →× 白組優勝

昭51 都はるみ「北の宿から」(143万枚)  →○ 紅組優勝

昭54 八代亜紀「舟唄」(38万枚)      →○ 紅組優勝

昭55 八代亜紀「雨の慕情」(56万枚)    →○ 紅組優勝

平15 SMAP「世界に一つだけの花」(313万枚)→○ 白組優勝


つまり、それだけNHKが天邪鬼で、これらの楽曲はそれでも大トリにせざるを得なかった

そこまでの国民的な楽曲が無くなったという事

北島三郎「まつり」(5万枚)が初めて歌われた年の白組トリは森進一「北の螢」

演歌としては19万枚のスマッシュ・ヒットで、これがトリに相応しかっただろう

最もこの年は引退・都はるみ「夫婦坂」(38万枚)が大トリになるが、

天邪鬼のNHKが引退騒ぎにあれほど大々的に乗じたのも紅白史上唯一

チェッカーズ解散など、今では考えられないほど早い時間帯に済ませた


中央日報日本語版

1年最後の日、全国津々浦々の国民が同じテレビ番組にチャンネルを合わせ同じ歌を一緒に歌って新年を迎える? いまの基準ではぞっとする話に聞こえるが、日本ではかなり長い間「実際状況」でした。毎年12月31日午後7時30分に始まり4時間以上にわたり進行される公営放送NHKの「紅白歌合戦」の視聴率は1980年代まで70~80%に達したからです。1951年に始まり実に70年にわたり続いた紅白歌合戦は日本人の年末の大型イベントでしょう。10年ほど前までも11月から紅白歌合戦の司会者と出演陣発表→傍聴客募集・抽選→曲名公開→審査委員団発表など関連ニュースで沸き返りました。伝統歌謡の演歌歌手からアイドルグループまで、1年間愛された歌手が一堂に集まる席、紅白歌合戦出演は日本の音楽家にとってスターになったことを正式に認められる「夢の舞台」でした。歌手を女性は「紅組」、男性は「白組」に分けて対決を広げる構成で、進行者の古典的な衣装と枠にはまったコメント、華麗だが奇妙にやぼったい舞台装置まで「伝統」を続けます。韓国人にもおなじみの「蛍の光」をみんなで一緒に歌うことで終わります。ネットフリックスやアマゾンプライムなど新たなプラットホームとコンテンツがあふれる時代、「伝統」で人々の関心を引くのは難しいです。かつて紅白歌合戦は日本国内の韓流熱風の指標でした。2002~2007年には韓国歌手BoAが6年連続で舞台に上がり、東方神起も2008~2009年に出場しました。第2次韓流ブームが起きた2011年には東方神起、KARA、少女時代の3チーム同時出演で話題になりました。2012年に李明博(イ・ミョンバク)元大統領の独島(ドクト、日本名・竹島)訪問後に韓日関係が冷え込み、韓国歌手が紅白歌合戦から姿を消します。5年間の空白を経て2017~2019年に日本人メンバーがいるTWICEが連続出場しました。2018年にBTS(防弾少年団)が日本で人気を呼び紅白歌合戦出場に対するファンの期待も大きくなったが、「原爆Tシャツ」問題で実現できませんでした。今年も日本はBTS熱風でした。オリコンの集計によると日本で発売されたBTSのアルバム『BTS,THE BEST』は12月中旬まで99万3000枚が売れ、年間アルバム販売順位1位を記録しました。日本で外国人アーティストが年間アルバム販売1位に上がったのは1971年のエルビス・プレスリー、1984年のマイケル・ジャクソン以来BTSが初めてというのでどの程度の人気なのか想像が可能です。しかし今年の紅白歌合戦出演者名簿にBTSはありません。韓国発だが全員日本人メンバーで構成されたNiziUだけ名前を上げました。「視聴者の多様な要求を考慮する」というのが放送局側の論理だが、実際の日本国民の人気を無視して閉鎖的な選択を繰り返した結果が紅白歌合戦の没落で現れたという指摘は避けられそうにありません。


PR TIMES

LINEリサーチは、13歳以上の男女(約55万人)を対象に、「年末年始の過ごし方&来年に期待すること」に関する調査を実施した。年末年始の過ごし方を聞いたところ、1位は「年越しそばを食べる」(52.4%)、2位は「お雑煮を食べる」(39.7%)、3位は「紅白歌合戦を見る」(38.5%)、4位は「初詣(はつもうで)に行く」(36.7%)、5位は「おせち料理を食べる」(35.1%)だった。年代別に年末年始の過ごし方を聞いたところ、例年同様「年越しそばを食べる」が20代以上の年代で1位だった。10代は「紅白歌合戦を見る」(46.9%)が他の年代に比べて高かった。60代以上は他の年代に比べ、1位の「年越しそばを食べる」(62.9%)、2位の「お雑煮を食べる」(53.5%)、3位の「おせち料理を食べる」(48.2%)など、食関連の項目の割合が高い傾向が見られた。22年はどんな年になると思うか聞いた。「とても良い年になると思う」が10.4%、「良い年なると思う」が25.7%、「やや良い年になると思う」が23.3%と、合わせて59.4%が良い年になるだろうと答えた。良い年になると答えた割合は昨年より10.3ポイント増加した。


松谷創一郎(ジャーナリスト)

人気低迷が叫ばれて久しいが、ここ15年ほど『紅白』の視聴率は40%前後(第2部)で推移している。(地上波)テレビ離れが進んだ2010年代以降においては、かなり健闘していると言えるだろう。今年で72回目を迎えるそんな『紅白』にはいくつかの転換点があった。戦後間もない1951年からラジオで放送が始まり、1953年の初のテレビ放送、1973年以降のNHKホールでの開催、1989年の2部制への移行(放送時間の拡大)、そして昨年のコロナ禍における無観客開催などだ。現在に続く歴史において大きな転換だったのは、やはり2部制への移行だろう。その最大の要因は、1984年をピークとした視聴率の急落だ。1989年には、NHKの島桂次会長(当時)が「本当は今年で最後にして、なくしたい気持ちだ」と述べて存続が危ぶまれた。80年代の『紅白』の背後には、音楽とテレビを取り巻く日本社会の変化があった。あのとき、『紅白』になにがあったのか──。

1984年、引退する演歌歌手・都はるみの花道として『紅白』は大きな注目を浴びた。クライマックスは、大トリとして都が「夫婦坂」を歌い終わった後に訪れた。観客席から「アンコール」が連呼され、司会の鈴木健二アナウンサーは都の説得のために「私に1分間、時間をください」とスピーチした。そして、周囲の歌手たちが都を囲んで「好きになった人」を涙を流しながら大合唱した。この年の視聴率は、78.1%を記録した。しかしその後振り返れば、それは『紅白』が70%台に達した最後の年でもあった。翌年から視聴率は急落する。1985年は前年から12%減の66.0%、1986年ははじめての50%台となる59.4%、そして1988年には53.9%にまで下がった。たった4年で視聴率が約24%も落ちた。1989年の島会長の発言も、歯止めがかからない視聴率急落を踏まえてのものだった。

この『紅白』の人気低迷の背景には、80年代のテレビと音楽をめぐるメディアの大きな変化があった。まずテレビにおいて生じたのは、受像機側の技術的な進化だ。具体的には、リモコンとビデオデッキ(VTR)の普及だ。リモコンは、1980年頃から一般に普及し始める。具体的な普及率は確認できないが、赤外線リモコンを使ってカチャカチャとチャンネルを替える“ザッピング”が定着したのはこの時代からだ。また、ビデオデッキが急速に普及したのも80年代だった。同じ放送時間の裏番組を録画したり、残しておきたい番組を録画したり、あるいは録画した番組の好きな部分だけを観たり、リアルタイム以外のテレビ視聴が広がっていった。1984年は18.7%だったビデオデッキの普及率は、1988年には53.0%にまで急上昇する。1985年は、日本テレビが裏番組として2夜連続ドラマ『忠臣蔵 後編』を放送した。『紅白』と完全に時間帯がかぶるものの視聴率は15.3%となり、その後は他局も裏番組に力を入れるようになる。こうしたなかで『紅白』がビデオ録画の対象となったことは十分に考えられる。裏番組がヒットするようになったのも、ビデオデッキが普及したからこそだ。テレビリモコンやビデオデッキと同じ時期に、音楽メディアでも大きな変化が生じた。それがCDの普及だ。それまでいちいち盤面をひっくり返す必要があったレコードに対し、CDは「コンパクト・ディスク」という名のとおり非常に扱いやすいものだった。CDの統計は1984年からしか残されていないが、その普及はあっという間だった。CDソフトの生産金額は1984年は全体の5%ほどだったが、1987年にはレコードのシェアを上回るほどの急成長を見せる。たった4年であっという間にマーケットを塗り替えてしまった。それは80年代に入って停滞傾向を見せていた音楽産業にとっても大きな起爆剤となった。1984年のソフト生産金額は約2741億だったのに対し、1988年には約3430億円にまで伸長する。そして、これ以降も1998年に約6075億円になるまで音楽産業は右肩上がりの成長を見せる。しかし、そこで気になるのが『紅白』とCDの関係だ。前述したように、『紅白』は1984年をピークに視聴率が急落する。つまり、CDが普及して音楽産業が成長していくのに対し、『紅白』の視聴率が下落していく。言い換えれば、音楽人気は拡大しているのに、音楽番組の人気が落ちていく──80年代中期、そんな現象が起きていた。1985年度のトップはチェッカーズ「ジュリアに傷心」(発売は前年11月)の70.2万枚、86年度は石井明美「CHA-CHA-CHA」の53万枚、87年度は瀬川瑛子「命くれない」の42.2万枚と、ついに50万枚を割ることになる。しかも「命くれない」にいたっては、前年3月発売だった曲がロングセラーで火がついた結果だった。年間ヒットがミリオンを回復するのは、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」が130万枚を越した1990年のことだ。この時期、さかんに指摘されたのは「国民的ヒット」の不在だ。老若男女だれもが口ずさめるような曲がなくなり、音楽が多様化した──しばしばそう分析された。それはデータからも裏付けられる。年間上位10曲の累計売上枚数は、1986~87年に500万枚を割っている。その一方で音楽産業全体は拡大しているので、一極集中のヒットが生まれにくくなっていたことは間違いない。こうした志向の多様化は、音楽に限らず日本社会に漂うひとつの思潮でもあった。たとえば1985年の「ユーキャン新語・流行語大賞」では、新語部門・金賞に「分衆」が選ばれた。これは、日本人がもはや全体で同じような傾向を持つ「大衆」ではなく、さまざまな価値観を持って多様化した「分衆」だとする広告代理店のマーケティングタームだ。こうして「国民的ヒット」=「大衆歌謡」が成立しない時代が到来した。

80年代中期から後半にかけては、若者を中心に音楽志向の変化が見られる特徴的な現象が複数確認できる。ひとつは、1985年7月にデビューしたおニャン子クラブの人気だ。フジテレビの夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』から生まれたこのアイドルグループは、番組内のオーディションコーナーで毎週ひとりずつメンバーを増やしていく前代未聞のシステムだった。無論のこと、これが後のAKB48や坂道グループの原型であり、手掛けたのも同じく秋元康だ。大ヒットが生まれにくかったこの当時、おニャン子クラブはヒットチャートを席巻した。とくに一年を通して活動した1986年は、おニャン子クラブやその派生ユニットとソロメンバーの曲が、オリコンランキングで47週中31週で1位となった。アイドルに歌やダンスのパフォーマンスを求めず、テレビを活用しながらアイドルシステムの内幕も暴露したおニャン子クラブは、中高生男子に喝采をもって受け入れられた。もうひとつは、バンドブームだ。80年代中期から90年代前半にかけて、ロックを中心とした音楽が若者に広く好まれるようになる。それは単に聴くだけでなく、若者たちが自分たちでバンドを組んで演奏するブームでもあった。そのなかから生まれたのが、プリンセス・プリンセスやたま、ブルーハーツ、ユニコーンなどだった。この動きに率先して追従し、そして活性化させる役割を果たしたのは雑誌メディアだった。86年に『PATi・PATi』(CBS・ソニー出版)と『ロッキング・オン ジャパン』(ロッキング・オン)が創刊され、『宝島』(JICC出版局)は判型を大きくした。そして、88年にはバンドブームを象徴するような雑誌『バンドやろうぜ』(JICC出版局)が創刊される。その誌名が「音楽やろうぜ」でも「ロックやろうぜ」でもなかったところが、コミュニケーションツールでもあった当時のバンド人気を示唆している。中高生を中心とする80年代後半の若者とは、1971~74年に年間200万人以上が生まれた団塊ジュニアを中心とする。彼/彼女らは従来の「歌謡曲」ではなくバンドサウンドに向かった。アイドルとバンドのファン層は明確に異なっていたが、80年代後半から90年代前半にかけては後者が前者を徐々に侵食していった。おニャン子クラブは1987年9月に解散し、1989年以降はジャニーズの光GENJIとバンド形式の男闘呼組の人気にも陰りが出始める。その一方でバンドの大ヒットが相次ぎ、まるでアイドルかのように支持を集める。実際、1989年に「Diamonds」と「世界でいちばん熱い夏」で年間ランキングトップ1・2位を占めたプリンセス・プリンセスはもともとアイドルグループ・赤坂小町であり、1990年に「今すぐKiss Me」が大ヒットしたLINDBERGのヴォーカル・渡瀬マキももともとアイドル歌手だった。

この時期、テレビでは『紅白』以外の人気音楽番組が相次いで姿を消していったのだ。なかでも象徴的だったのは、80年代の音楽番組の中心にあったTBS『ザ・ベストテン』が1989年9月に終了したことだ。変化が現れたのは1988年10月頃からだ。この月、急激に視聴率が下落してはじめて10%を割った。すでにおニャン子クラブは解散していたが、デビュー2年目の光GENJIは全盛期であり、長渕剛の「乾杯」がスマッシュヒットとなった年だ。『紅白』の視聴率が急落して2部制になるのはこの翌年からだ。日本テレビの『歌のトップテン』は1990年3月に、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』もジャンル別に分化した後に1990年にすべて終わった。

80年代中期まで、放送業界-音楽業界-芸能界のスクラムで構築された歌謡曲は、年末の『紅白』を頂点として“歌謡界”を成立させてきた。都はるみの引退が大きく盛り上がったのもそうした時代の産物だ。そして、この“歌謡界”が80年代中期から後半にかけて段階的に崩れていき、『紅白』も2部制へ移行する。しかし、歌謡曲が不人気になってもポピュラー音楽がなくなったわけではない。歌謡曲の人気減退と入れ替わるように登場したのは、J-POPという新たな概念だった。テレビリモコン+ビデオとCDの普及、音楽志向の多様化と音楽番組の低迷、そして歌謡曲からJ-POPへの移行と『紅白』2部制の始まり──80年代後半に日本のテレビと音楽を取り巻く状況は大きく変わった。

朝ドラ主演・ヒロイン

近年の単独主演で紅白出演がならなかったのは、

朝ドラの評判も芳しくなかった芳根京子のみであったが、

天才・趣里がまさかの紅白辞退となった

尚、愛知県出身の朝ドラ主演・ヒロインは、開始以来60年以上ゼロとなっている


第72回の審査員6名は、上皇ご成婚の年、昭和34年以来62年ぶりの少なさ

(ちなみに、女優の審査員がいなかったのは昭和34年が最後)

6票中1票という事だから、1人あたりの1票の重さも62年ぶりという事になる

女優初の紅白審査員が昭和31年の河上敬子(医師・女優)

芦田愛菜が医師になって審査員になる可能性もあったが、

21世紀生まれ紅白審査員第1号は清原伽耶となったため、

「20世紀生まれ女優、21世紀生まれ女優共に紅白審査員第1号が医師」とはならなかった

河上敬子(昭和6年3月11日生まれ、令和3年末現在90歳)

清原伽耶と同じく、イニシャルがK・Kだ

奇しくも、顔は紅白出演が無かった芳根京子に似ている

まだ『NHK紅白歌合戦』が怪物番組となる前の1950年代は、民放も積極的に裏特番を仕掛けていた。初のテレビ放送が行われ、開催日も大晦日に固定された1953年の第4回に続いてテレビ放送を強く意識していた1954年の『第5回NHK紅白歌合戦』は、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「元祖三人娘」……トップアイドル勢揃いで評判となったが、これに対し、1955年4月1日に開局したラジオ東京テレビ(のちのTBSテレビ)は大晦日の20時50分から『オールスター歌合戦』を21時15分開始の『NHK紅白歌合戦』の裏番組として企画した。前述の『オールスター大行進』の前身番組である。当然、出演歌手の引き抜き合戦となったが、美空ひばりや淡谷のり子を『オールスター歌合戦』に引き抜かれた穴を埋めるべく、NHKはトニー谷や黒柳徹子(当時はNHK専属で、ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』に出演していた)による応援合戦を企画し、それまでにはなかったバラエティ色を導入する。賑やかな毒舌家である大泉洋や有吉弘行が司会を務める系譜は、この年のトニー谷が十八番のそろばん漫談を披露したことから始まっており、これを奇貨として『NHK紅白歌合戦』が一気に引き離していく。そのため、後継番組である『オールスター大行進』も、1957年は19時から23時までの放送だったが、重複時間の視聴率が伸び悩んだことから次第に短縮され、1963年は21時までの放送で棲み分ける形になっていた。

その後、紆余曲折を経て70年代前半の大晦日の夜は『日本レコード大賞』と『NHK紅白歌合戦』の2大番組体制となったのだが、エンタテインメントへの価値観が多様化していくにつれ「歌謡番組以外で裏番組を編成すれば良いのでは?」という発想が生まれてくる。明確にその意思が表れたのは、1975~1977年の日本テレビ『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』だった。芸人によるバラエティ番組は開局以来、日本テレビの大きな武器だったが、東京と大阪の笑芸が大きく異なることから、それまでは全国ネットの大型特番を組みづらいという事情があった。確かに60年代、日曜の18時は大阪の『てなもんや三度笠』(朝日放送)がTBS、18時30分は東京の『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が読売テレビでネットされており、どちらも人気番組だったが、両者は完全に棲み分ける構図になっていた。なので、このときも19時から『テレビ三面記事 ウィークエンダー』の年末特番である読売テレビの『大晦日スペシャル イヤーエンダー'75』を放送し、俗悪爆笑路線のセット売りで21時から放送された。萩本欽一と坂上二郎のコント55号は当然、東京の笑芸を代表する存在で、それも浅草の軽演劇出身だったから、公開収録も浅草の松竹演芸場で行われた。結果、1975年はビデオリサーチ6.4%、ニールセン9.5%と、前年の1.2%から大きく伸ばし、『紅白歌合戦』裏番組の中では最高の視聴率になったが、10%に達することはなかった。

1979年の『第30回NHK紅白歌合戦』は記念大会と銘打ち、美空ひばりが特別出演で復帰することが話題となった。歴代最高視聴率を記録した1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』から、ひばりは10年連続でトリを務めてきたが、1973年、弟の かとう哲也が三代目山口組系益田組の舎弟頭となり、逮捕されたことが問題となり、『第24回NHK紅白歌合戦』に落選。以後、NHKとは絶縁状態になっていたからだ。1973年と言えば、東映の『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットした年だが、ヤクザ映画が陰惨な実録路線に転じたのも、1972年の あさま山荘事件で学生運動が沈静化した代わりに暴力団が社会問題となっていたからだ。そのため、官憲側は社会的影響の強いスターを晒し上げることで、暴力団排斥の風潮を形成しようと考えたのだが、三代目山口組組長・田岡一雄が後見人を務めていた美空ひばりは格好の標的だった。結局、紅白不出場となった1973年は紅白トリの真裏になる23時から45分間、NET(のちのテレビ朝日)からのスタジオライプで『美空ひばりワンマンショー』を放送し、翌年からの4年間も、大晦日の新宿コマ劇場公演をNETが生中継していた。しかし、1978年に入ると、4月に『ひるのプレゼント』へ3日間出演し、12月26日には『NHKビッグショー』にも出演するなど、現場レベルでの手打ちはすでに行われていた。そして、直前に放送された『第21回日本レコード大賞』では、ジュディ・オング『魅せられて』が大賞に輝いていた。この年は歴史に残るヒット曲が続出し、賞レースは荒れに荒れていた。五木ひろし『おまえとふたり』と八代亜紀『舟唄』の「五八戦争」に、小林幸子『おもいで酒』の大ヒット、沢田研二、山口百恵、岩崎宏美、西城秀樹などの賞レース常連なアイドル歌謡曲組、さらにアリス、ゴダイゴ、さだまさし、サザンオールスターズなどのニューミュージック&ロック系が入れ乱れる状況で、女優が本職のジュディ・オングが日本レコード大賞に輝いたのは、本命だった西城秀樹『YOUNG MAN』がヴィレッジ・ピープルのカバーだったため、審査対象から外されたことが大きかった。年間シングルチャートは渥美二郎『夢追い酒』に次ぐ2位だったが、『夢追い酒』は前年に発売されていたため、やはり審査対象から外されていた。もっとも、『魅せられて』が巷に知られたのは、ワコールのCMソングとして頻繁にお茶の間に流れていたからで、CMソングの影響力の強さがクローズアップされるきっかけにもなった。CM自体は映画『エーゲ海に捧ぐ』からの映像流用で、イロナ・スターラ(のちのチッチョリーナ)がフロントホックブラに包まれた美乳をアピールするアダルトな内容だったのだが。荒れた賞レースは『NHK紅白歌合戦』の選考にも影響を与え、和田アキ子とピンク・レディーが落選した。和田アキ子は『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)の「ゴッド姉ちゃん」で人気を博していたが、現代で喩えれば松本人志のような愚連隊のボス猿キャラだったことから、本業の歌手活動に支障が出ており、1978年3月に自主降板していた。その後は裏番組の『翔べ!必殺うらごろし』(朝日放送)に出演しつつ、浜田省吾が作詞・作曲したアーバンな主題歌『愛して』を歌い、1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』でも、2年連続で『北国の春』を歌った千昌夫との対戦で名曲『コーラス・ガール』を歌うなど、歌手としては円熟期に入っていくが、ヒットには繋がらず、自主降板の報復で日本テレビを1980年3月の『西遊記II』のゲスト出演まで完全出禁になるなど、タレントとしては冬の時代に突入していた。紅白の常連歌手だったイメージがある和田だが、歌手としてもっとも脂の乗っていた時期には出場していなかったのだ。ピンク・レディーは1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』を出場辞退し、日テレの裏番組でチャリティー歌謡ショー形式の『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演していた。日テレは3年続けた『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の1977年度視聴率が6.2%で伸び悩んでいたことから、代わりに人気絶頂だったピンク・レディーを一本釣りしたのだが、『第29回NHK紅白歌合戦』の72.2%に対し、視聴率は8.2%。善戦ではあったが、引き抜きの代償まで考えると見合わない数字だった。裏番組に出演するために『NHK紅白歌合戦』を出場辞退したことが「前代未聞」だとバッシングされたからだ。TBSがラジオ東京テレビだった頃の『オールスター歌合戦』で歌手の引き抜き合戦があったように、過去にはいくつも起きていたはずだが、国民的番組となっていたこの時代の『NHK紅白歌合戦』を辞退したことは、かねてから企画していた海外進出も相まって「日本国民への重大な反逆行為」として捉えられた。つまり、『NHK紅白歌合戦』が国民的ナショナリズムを体現する存在にまでなっていたのだが、そうした風向きを読み違えたピンク・レディーの人気は1979年後半になると凋落し、紅白も落選した。結局、ピンク・レディーは1980年9月1日に解散を発表する。1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートはスタンドに空席が目立ち、同じく1978年に後楽園球場で開催され、2日間で約7万人を動員した『’78ジャンピング・サマー・カーニバル』と比べるとかなり寂しいものだった。そんな芸能界の地殻変動を反映してか、1979年の『第30回NHK紅白歌合戦』は記念大会でありながら、初出場歌手が多かった。初登場は石野真子、渥美二郎、大橋純子、サザンオールスターズ、金沢明子、さだまさし、金田たつえ、ゴダイゴ、ジュディ・オング、小林幸子で、大橋からジュディ・オングまでは初出場歌手が7人連続で歌う構成になった。当時の番組構成は前半が若手のポップス系、後半がベテランの演歌、歌謡曲系と完全に分かれていたため、初出場の歌手はほとんど前半にまとめられていた。なので、28曲目の山口百恵『しなやかに歌って』以降、大トリ(48曲目)の八代亜紀『舟唄』まで、出場回数5回以下は石川さゆり(3回)と小林幸子(初出場)だけで、ほかは全員、演歌系のベテランだった。その中でさだまさしが歌ったのは大ヒット曲『関白宣言』だったが、7インチアナログレコード盤で5分50秒の曲をフルで歌うのは、当時の『NHK紅白歌合戦』ではご法度だった。1990年、『第41回NHK紅白歌合戦』に初出場した長渕剛が、ベルリンからの特別中継とはいえ16分で3曲フルで歌う暴挙をやらかし、大ベテラン・植木等の持ち時間を大幅に短縮することになったことから、視聴者からも大顰蹙を買ったのは、現在でも語り草になっているが、この頃は5分超えでも大顰蹙だった。この年の ひばりも特別枠で『ひばりのマドロスさん』『リンゴ追分』『人生一路』の3曲メドレーだったが、昔の歌謡曲はフルでも3分前後で収まるように作られており、メドレー用に編曲すれば、3曲でも5分強へ収めることができたからだ。もっとも、さだは1977年の『第28回NHK紅白歌合戦』にも出場を打診されていたが、この年の持ち時間はさらに短く、2分30秒だったため、歌える曲がない、という理由で辞退していた。要は三顧の礼で招いたひばりの持ち時間を超えるのが、ご法度だったのだ。なお、ひばりの3曲目は『人生一路』だが、この曲は かとう哲也の作曲で、NHKへの意趣返しでもあった。結局、さだの持ち時間問題に悩んだ番組スタッフは、当のひばりにお伺いを立てることになった。この経緯は さだ自身も何度か語っており、直近では20年の『行列のできる法律相談所』(日本テレビ)でも話している。「ひばりさんが歌詞を読みながら聴いてくださって。『これは削れないわね』って。それでスタッフも『さだくん、全部歌っていいよ!ちょっとテンポ上げて』って言われて」と。実際には普段より早口にして間奏を省略するなど、5分1秒に収める強引な編曲を行い、無事に放送された。もっとも、当時の映像を観ると審査員席の若山富三郎、ミヤコ蝶々、菅原文太、大原麗子というドスの利いた面々が次々と結婚式の親族のように映るのでかなり怖いし、サゲのところでは翌年の結婚引退を示唆していた山口百恵をアップで映す あざとい演出もあったのだが。1970年代から80年代にかけて、吉田拓郎、南こうせつ、アリス、松山千春、井上陽水など、ニューミュージック系の人気歌手の間では「『NHK紅白歌合戦』という番組は国民的ナショナリズムの象徴だから、出場しないことこそが反体制的で格好良い」という風潮があり、ほとんど誰も出場しない空前の出演拒否ブームが続いていた。前述の長渕剛が16分も歌ったのも、この偉大な先輩たちに強いコンプレックスを抱いていたからで、「先輩たちには絶対できないことをやって勝つ」「先輩たちが反体制を気取るなら、俺はナショナリズムを体現して国民的歌手になる」という逆張りだった。そんな私怨に巻き込まれたスタッフと長渕ファン以外の視聴者はまったく災難としか言いようがなかったのだが。1979年7月26日19時から翌日朝4時まで62曲を歌った吉田拓郎「アイランド・コンサート In 篠島」の前座で大プーイングに遭ったトラウマを克服するため、さらに長く大規模な「ALL NIGHT LIVE IN 桜島 04.8.21」や「富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015」を実行した長渕だ。良くも悪くも思想は一貫している。なので、さだまさしが持ち時間の件をクリアするだけで出場してくれたことにNHKは強く感謝していた。さだは翌1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では映画『二百三高地』の主題歌だった『防人の詩』を歌ったので、いよいよナショナリズムに魂を売ったと批判された。確かに『二百三高地』のヒットから、80年代の邦画は戦争大作映画ブームになるのだが、脚本の笠原和夫が戦中派だったこともあり、この作品はむしろ、不条理と死屍累々の厭戦映画だった。さだもその意図を理解したうえで主題歌を提供していたのだが、団塊の世代=全共闘世代の人気を得るため、教条的に反体制のポーズを取っていた同業者たちと違い、さだと長渕はほんの少しナショナリズムへ寄せることで、幅広い年代層から支持される大衆性を獲得することができた。さすがに長渕の蛮行は許されず、2003年の第54回で再出場するまでNHK自体出入禁止となったのだが、さだとNHKの関係性は2023年で通算23回となる『NHK紅白歌合戦』出場だけでなく、『今夜も生でさだまさし』、『鶴瓶の家族に乾杯』の番組企画、連続テレビ小説『舞いあがれ!』のナレーションなど、ニューミュージック系歌手の中でも別格扱いの太いパイプを築いている。なお、この年のトリは熾烈な賞レースを繰り広げた五木ひろしと八代亜紀がそれぞれ『おまえとふたり』『舟唄』を歌い、視聴率は前年の72.2%を上回る77.0%。ニールセン瞬間最高視聴率は、関東地区が78.3%、関西地区が80.8%だった。五木と八代の「五八戦争」は翌1980年の『ふたりの夜明け』『雨の慕情』でピークに達する。そして、1979年の『NHK紅白歌合戦』は前々回記事で触れた通り、ジャニーズ事務所からの出場歌手がなかった。1976年まで7年連続出場したフォーリーブスは、1978年8月に解散していた。フォーリーブスの代表曲と言えば、後年、『ジャニーズカウントダウン』で若手グループの定番カバー曲にもなったゴムベルトアクションの『ブルドッグ』だが、意外なことに紅白では歌っていない。落選した1977年のヒット曲だったからだ。1979年の白組トップバッターを務めた郷ひろみも1975年、ジャニー喜多川が「十二指腸潰瘍」の病名で入院した隙にバーニングプロダクションへ「強行移籍」していた。あのメリー喜多川も、浜田幸一や北島三郎の用心棒……もとい、運転手を務めていた「ドン」周防郁雄には勝てなかった。なので、3年連続でジャニーズ事務所からの出場はなかった。翌1980年の第31回でようやく、『3年B組金八先生』(TBS)で人気となった田原俊彦が出場するのだが、1979年の時点では、川崎麻世が『レッツゴーヤング』(NHK)のサンデーズメンバーとして出演していた程度で、ジャニーズ事務所は冬の時代だったのだ。裏番組へ目を向けると、ピンク・レディー人気凋落の原因を作った日本テレビは、新宿コマ劇場からの中継で『欽ちゃんの紅白歌合戦をブッ飛ばせ! 第1回全日本仮装大賞・なんかやら仮そう』を放送していた。タフで芸達者な坂上二郎が『カックラキン大放送!!』(日本テレビ)、『明日の刑事』(TBS)など、ピン仕事が多くなったこともあり、素人いじり路線へ転じた萩本欽一による視聴者参加型番組だった。これが「大将めっけ」こと萩本欽一最後の冠番組として、現在まで残る『全日本仮装大賞』の第1回なのだが、大晦日の生放送ということで、現在のように家族や仲良しグループによるコント仕立ての仮装は少なかった。『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)の素人参加コーナーの延長線上で、『新春かくし芸大会』(フジテレビ)の素人版を狙っていたのだろうが、実際、それらの素人参加コーナーで物真似芸を披露していた竹中直人が4組目で登場し、「松田優作のドラキュラ」なる仮装(?)を演じて、番組初の不合格になっていた。審査員は青島幸男、桐島洋子、富島健夫、鈴木義司、沢たまき、樹れい子、江夏豊、岡田眞澄、青木雨彦、所ジョージ、山本晋也、里中満智子、谷啓という、いかにも井原高忠や斎藤太朗の番組らしい面子なので、合格しそうな気もするのだが、仮装というよりは物真似だし、題材からして欽ちゃん好みの素人っぽさがなかったのだろう。肝心の視聴率は4.8%で、前年の8.2%からかなり落ちたが、予想とは違った手応えがあったのか、お茶の間向けの視聴者参加型バラエティ番組として企画修正され、1980年5月3日、『土曜スペシャル』枠の19時へ繰り上げた第2回が放送されると一気に人気番組となった。ところで、広島東洋カープ初の日本一に貢献した江夏豊が『日本レコード大賞』ゲストからの遅れ参加で審査員に入っていたのだが、監督の古葉竹識は『紅白歌合戦』の審査員で、衣笠祥雄、高橋慶彦、木下富雄、萩原康弘といった主力選手たちも何故か「元祖ハンバーグ師匠」菅原洋一の応援要員に駆り出されていたので、江夏はつくづく一匹狼だったんだな、と感慨深いものがあった。そして、その江夏の前で「広島東洋カープ優勝の瞬間」の仮装(?)を演じた無名の素人はさぞ緊張したことだろう。TBSは通常編成の『月曜ロードショー』枠で映画『ウエストサイド物語』だったが、フジテレビは『スーパージャム'79~'80』という音楽特番を組んでいた。フジテレビとニッポン放送の共同企画で山本コータローが司会を務め、松任谷由実や森山良子のスタジオライヴ、日本青年館での吉田拓郎コンサート、北海道足寄町での松山千春コンサートをリレー生中継するニューミュージック系特番だった。現在の目で見ても豪華な企画だと思うのだが、視聴率は2.6%と伸び悩んだ。テレビ朝日は「80年への狙撃!! 紅白だけが祭りじゃない!!」と銘打ち、浅草国際劇場で行われた内田裕也主催の『ロックフェスティバル'79』を中継した。のちの『ニューイヤーロックフェスティバル』なので、柳ジョージ、桑名正博、ジョー山中、アン・ルイス、宇崎竜童、ジョニー大倉、近田春夫というおなじみの面子だが、視聴率は1.4%。以後、紅白の裏番組として中継されることはなかったのだが、この年に裏番組として放送されたのには理由がある。カネボウ化粧品・秋のCMソングとして歌った桑名の『セクシャルバイオレットNo.1』が10月に入って人気爆発、『関白宣言』のオリコン11週連続1位を阻止し、そのまま3週連続1位となったからだ。10月11日の『ザ・ベストテン』(TBS)ではゴダイゴ『銀河鉄道999』の8週連続1位も阻止していたので、当然、紅白歌合戦にも出場する……かと思いきや、ヒットの時期が遅かったからか、1977年の大規模な芸能界麻薬汚染事件で逮捕され、まだ執行猶予中だった桑名の本物すぎる不良性感度がNHK的にまずかったのか、内田裕也への恩義を優先したのか、結局、一度も紅白に出場することはなかった。実際問題、この年の紅白のロック系歌手は西城秀樹と沢田研二を除くと、ツイスト(2年連続)、サザンオールスターズ、ゴダイゴなので、ロック系の不良性をかなり警戒していたのが見て取れるし、敷居もかなり高かった。東京12チャンネル(現・テレビ東京)は『年忘れにっぽんの歌』とワンセットの懐メロ特番『年忘れなつかしの歌声』だが、それでも『日本レコード大賞』との兼ね合いで直接対決を避けていたTBS以外は、ようやく『紅白歌合戦』に対抗する構えを見せ始めた。その分、手前の『日本レコード大賞』の裏番組は古い名作映画を流して体裁だけ装う、やっぱりどうにもやる気のない編成だったのだが、時間帯が早い分、子ども向けを意識していたのか、名作とも言い難い謎のチョイスになっていた。日本テレビは19時から通常編成の『ルパン三世』第116話「108つの鐘は鳴ったか」だが、続く映画『地底巨大生物の島 驚異!!地底湖に棲む大恐竜・大海亀・キングゴリラの恐怖!』は、1961年のハリウッド特撮映画『SF巨大生物の島』とはまったく関係なく、ジュール・ヴェルヌの『地底探検』が1976年にスペインで映画化されたものだ。新聞のテレビ欄には(77年伊)と記されていたが。フジテレビの『ゴジラ対ガイガン』もたいがいだが、テレビ朝日の18時30分からの『ゴルゴ13 九竜の首』は、もはや正気の沙汰とは思えない。一時期、関根勤が千葉真一の大袈裟な物真似シリーズで演じていたが、誰かに怒られたのか、いつの間にか封印されていたアレだ。というか、千葉真一はさておき、『ゴルゴ13』の時点で子ども向けですらないし、テレビ朝日版『ドラえもん』はこの年の4月から、10分間の帯番組(18時50分)として始まっており、既に人気番組となっていた。80年代以降の大晦日は1995年以外、現在に至るまで『大みそかだよ!ドラえもん』頼みだったから、それを差し置いてわざわざ『ゴルゴ13』というのは、かなり意外な感じがする。なお、その唯一の例外だった1995年のテレビ朝日は、日本での放映権を獲得したビートルズの公式ドキュメンタリーTVシリーズ『The Beatles Anthology』を18時から5時間30分一挙放送したが、視聴率は通しで3.3%だった。

1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』裏番組は、日本テレビが18時30分から桂三枝(現・六代目桂文枝)、B&B、沢田亜矢子の司会で『輝け!!“特別生放送”笑いは日本を救う!?』というワイド特番、TBSは21時から横山やすし、西川きよしの司会で『笑ってサヨナラ'80東西BEST漫才』と、一気にバラエティ色が強くなった。あからさまに「漫才ブーム」の影響だが、やすきよは日本テレビで漫才を披露し、そのままTBSへ移動して司会を務める慌ただしさだった。もっとも、ザ・ぼんち、紳助・竜介、阪神・巨人、レツゴー三匹、春やすこ・けいこ、今いくよ・くるよ、太平サブロー・シローなど、出演者の多くが両番組を掛け持ちしていたのだが、最大のスターは「毒ガス漫才」のツービートだった。怒涛のように襲来する大阪のどぎつい漫才師たちに、東京勢はほとんどツービートだけで対抗する構図になっていたのだが、レツゴー三匹のどぎつい定番ネタ「ルーキーに貸した金返せ!」は、この年の3月、レツゴー正児の兄であるルーキー新一がアルコール中毒で亡くなったため、封印されていた。東京の視聴者はルーキー新一が吉本興業に叛逆し、徹底的に干されて金銭トラブルを繰り返した陰惨な事件を知らないから、このネタではそもそも笑えなかったのだが。なにはともあれ、ここでようやく東京と大阪の笑芸の壁が消滅し、吉本興業が本格的に東京へ再進出していくことになるのだが、ようやく全国的にウケた理由は、浅草出身の非吉本芸人なのに、吉本芸人よりもどぎついツービート……ビートたけしが迎え撃つ構図にあった。萩本欽一のサイコパスで偏執的な芸風と違い、たけしの毒舌だがあっさり流す芸風は、大阪勢と絡みやすかったのだ。実際、この年の10月から始まった『笑ってる場合ですよ!』や、1981年5月開始の『オレたちひょうきん族』(共にフジテレビ)でもこの構図を最大限に利用していた。しかし、フジテレビの『NHK紅白歌合戦』の裏は、竹村健一、フレデリック・フォーサイス、ヘンリー・キッシンジャーなどをメインに据えた『'80大晦日スペシャルドキュメント 1983年何かが起こる? “悪魔の選択・日本の選択”』という、モスクワオリンピックのボイコット問題で湧き上がった反共ブームに乗る怪しげな政治討論番組を放送していた。あの異様な動物番組『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』の第1回は、この2日前、1980年12月29日に放送されていたが、有名な「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズが作られたのは翌1981年で、1980年は長く続いた「母と子のフジテレビ」時代の最後だった。そりゃ、『笑ってる場合ですよ!』でツービートが『全日本勝ち抜きブス合戦』なんて始めたら、「母と子のフジテレビ」なんて呑気なフレーズは吹っ飛んでしまうのだが。テレビ朝日は『'80大みそかだよ!ドラえもん』から、松田優作主演のハードボイルドアクション映画『最も危険な遊戯』で、やっぱり温度差がひどいのだが、同局の大株主は東映なので、大晦日は東映のスター映画を放送するという方針だったのかも知れない。翌1981年にテレビ東京への局名変更を控えていた東京12チャンネルにも変化があった。17時スタートの懐メロ&演歌番組だった『年忘れにっぽんの歌』をリニューアルし、『日本レコード大賞』開始前に松田聖子、田原俊彦、もんた&ブラザーズなどを出演させたのだ。77年から放送していた音楽バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』が定着したことで余裕が生まれたのだろうが、肝心の紅白裏は力尽きたのか、1979年1月2日に全6部を12時間ノーカット放送して好評だった、1959年の映画『人間の條件』第3部と第4部をまた放送していた。もっとも、年明けの1月2日から初の『12時間超ワイドドラマ』として萬屋錦之介主演の『それからの武蔵』を放送しているので、その露払い的な意図があったのかもしれない。

1984年の『第35回NHK紅白歌合戦』は引退表明していた、都はるみのラストステージだったこともあり、視聴率78.1%を記録した。都はるみ登場時の瞬間最高視聴率は84.4%だったが、翌1985年は演歌系のヒット曲が乏しかったため、『第36回NHK紅白歌合戦』ではアイドル、バンド枠を増やすことになった。初出場は石川秀美、吉川晃司、テレサ・テン、C-C-B、松原のぶえ、鳥羽一郎、安全地帯、原田知世だったが、紅組の石川秀美に続いて白組トップバッターを務めた吉川晃司は、1985年10月2日に放送された『夜のヒットスタジオDX』でアン・ルイスと『六本木心中』をデュエットしつつ疑似セックスを演じたことで物議を醸していた。なので、「紅白でも何かやらかすのでは?」と思われていたのだが、案の定、この年のカネボウ・夏のキャンペーンソングだった『にくまれそうなNEWフェイス』を歌いながら、持ち込んだシャンパンをぶち撒け、最後はギターにオイルを振りかけて燃やすイキリっぷりだった。カメラには映らなかったが、3曲目の河合奈保子の持ち時間にまで食い込む暴走っぷりにステージの清掃が間に合わず、4曲目で登場したシブがき隊の布川敏和はシャンパンの残滓で足を滑らせ、2回転倒していた。このため、筆者の家では吉川晃司と『ザ・ベストテン』(TBS)や『オールナイトフジ』(フジテレビ)で、度々テレビカメラを破壊していたとんねるずが同じハプニング芸人枠として認識されてしまった。吉川本人も広島在住の姉から「姉弟の縁を切るよ!」と怒られたが、パフォーマンス自体は現場スタッフと事前に打ち合わせた「演出」だったと、『舞いあがれ!』の番宣で出演した2022年12月9日の『あさイチ』(共にNHK)で謝っていた。なので、以後の紅白出場こそなかったが、のちの長渕剛とは違い、NHK自体は出禁になっていない。転倒した布川も吉川の夜遊び友達だったから、笑って済ませていた。有力歌手やマネージャーの独立が相次ぎ、沢田研二もこの年に独立するなど、弱体化しつつあった渡辺プロダクションの秘蔵っ子で、渡辺晋が最後に陣頭指揮を執った切り札だったから、事務所も必死に守ったのだろうが、独立後の現在も大河ドラマや連続テレビ小説の常連俳優であり、『フランケンシュタインの誘惑』(NHK-BS)のナビゲーターも務めている。ちなみに、シブがき隊は紅白の時点でレコード発売前の新曲『スシ食いねェ!』を歌っていたのだが、何でそんなことが許されたのかというと、ちょうど『みんなのうた』1985年12月の曲だったからだ。1984年の吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』に次ぐ、日本語ラップ草創期の歌謡曲で、Run-D.M.C.の1stアルバムと二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船』を組み合わせたハイセンスな曲だが、どちらも当時の少年少女はまず知らないし、これをいきなり児童向けの『みんなのうた』に登用するあたり、NHKも相当に無茶である。翌年2月の発売後にヒットしたから良かったが、結局、シブがき隊はこれが最後のヒット曲となり、1986年の『第36回NHK紅白歌合戦』で歌ったのも『スシ食いねェ!』より先に発売された『トラ!トラ!トラ!』だった。シブがき隊もこれが最後の紅白出場となったのだが、これも12月29日に北島三郎と山本譲二が稲川会の新年会に出席していたことから急遽降板となり、補欠の鳥羽一郎も辞退したことから、前日の12月30日に補欠の補欠で出場が決定した「いわくつき」だった。1985年の紅白裏で話題となったのは、19時から放送されたフジテレビの『世界紅白歌合戦』だった。ジャンルの多様化に伴う歌番組の低迷傾向を打破すべく、2時間枠に拡大した『夜のヒットスタジオDX』は衛星中継を使って、毎回、海外の大物人気歌手をゲストに招く企画を行っていた。演歌、歌謡曲、ロック、ニューミュージック、アイドル……すべてのジャンルを一つの番組に収める求心力として、洋楽の権威を利用しようとしたのだ。1986年からのバブル景気前夜だったから、ジャパンマネーの威力もあったのだが、1985年4月17日の放送でフランク・シナトラとティナ・ターナーの共演を実現させたことで、ブッキングに自信を付けていた。もっとも、ティナ・ターナーはSGI(創価学会インタナショナル)傘下のアメリカ創価学会の熱心な信者だったから、創価学会の宣伝という意味合いもあった。当時の学会は日蓮正宗との抗争で池田大作が会長を退任、名誉会長とSGI会長が主な役職になっていたので、SGIを学会の上位組織としてアピールする必要があったのだ。実際、1988年の日本ツアーは学会系の民音(民主音楽協会)が主催していたのだが。その勢いで企画された『世界紅白歌合戦』は、『夜のヒットスタジオDX』の古舘伊知郎、芳村真理に加え、谷村新司の3人が総合司会を務め、現在の『FNS歌謡祭』と同じく、グランドプリンスホテル新高輪の宴会場「飛天」をメインスタジオとして、ロサンゼルス、ロンドン、ハワイ、香港からの衛星多元中継を行った。そして、12月27日に大阪フェスティバルホール、28日に日本武道館で来日公演したばかりのティナ・ターナーを筆頭に、a-ha、シーラ・E、リマール、ポール・ヤング、シーラ・イーストンなどの海外歌手を揃え、1985年11月13日のコロンビア・ネバドデルルイス火山大噴火のチャリティオークションを交えての構成だった。このあたりは大義名分だろう。さらに、西城秀樹、布施明、谷村新司、高中正義、菊池桃子、少年隊、アン・ルイス、チャゲ&飛鳥……と日本勢も充実していたが、ロック・ニューミュージック系以外も洋楽志向の強い歌手を揃えていた。だったら、この年にデビューしたアイドルの菊池桃子は何なのだ、という話になるが、菊池桃子も1988年にフュージョン&ファンクバンドのラ・ムーを率いていた。ラ・ムー自体は筋肉少女帯の『ビッグマグナム大槻先生のパンクでポン』でネタにされるなど、興行的には失敗したのだが、スピリチュアル・ジャズ・ファンクという音楽コンセプトは後年、堂本剛のENDRECHERIなどに受け継がれている……はずだ。また、出演者の中でも西城秀樹は本家『NHK紅白歌合戦』の常連で、この年も『科学万博つくば '85』のテーマソング『一万光年の愛』を歌っていた。11月にはヴィレッジ・ピープルのカバーを歌っていたことからなにかを勘違いされたのか、バリー・マニロウから『腕の中へ』を提供され、『夜のヒットスタジオDX』でもデュエットで歌っていたが、どちらもヒットには繋がらず、落選していた。『YOUNG MAN』の大ヒット以降、ハウス食品「バーモントカレー」のCMのイメージもあって、子供向けの安全な歌手というイメージが定着してしまったのだが、万博の開会式でNHK交響楽団をバックに歌ったことが、いよいよ秀樹のロックなイメージを薄れさせ、世代交代の波を被ってしまった。なので、80年代後半は香港や韓国など、アジア圏での活躍のほうが目立っていた。国内での人気が復活するのは、1991年に『走れ正直者』がアニメ『ちびまる子ちゃん』のEDテーマで使われてからのことだが、10年ぶりに出場した1994年の『第45回紅白歌合戦』で歌ったのは『YOUNG MAN』だった。同じく復帰組で先に歌った郷ひろみは新曲『言えないよ』だったが、秀樹はすっかり懐メロ歌手扱いになっていた。他局へ目を向けると、日本テレビはこの年から30日からの2日連続となる『年末時代劇スペシャル』枠を新設し、21時2分から大型時代劇『忠臣蔵 後編』を放送していた。大石内蔵助を里見浩太朗、吉良上野介を森繁久彌が演じる豪華な配役だったが、忠臣蔵(赤穂事件)自体は、1982年のNHK大河ドラマ『峠の群像』で、原作者の堺屋太一が赤穂の製塩利権争いから起きた経済事件として描いていた。また、討ち入りに参加しなかった者たちの視点で描いた井上ひさしの小説『不忠臣蔵』や、吉良上野介を礼儀知らずの田舎者・浅野内匠頭の被害者として描いた小林信彦の小説『裏表忠臣蔵』など、変化球なスピンオフ系のほうが多く、正統派の忠臣蔵はもう受けないだろう、という世評だった。しかし、30日から続く形にしたことが功を奏したのか、紅白の若返りで高年齢層の視聴者が流れたのか、まさかの視聴率15.3%を記録した。この思わぬ成功で気を良くしたのか、1992年まで8年間、日本テレビの紅白裏は『年末時代劇スペシャル』を放送していた。よくよく見ると、第2作『白虎隊』から第6作『勝海舟』まで、5作連続で幕末物で戊辰戦争に焦点を当てていたヘンな枠だったのだが。TBSはやっぱり通常編成だった。21時から『毎度おさわがせします』で、22時からは『そこが知りたい』だが、大阪の毎日放送は『タイガース栄光の一年』という阪神タイガース優勝特番を放送していた。『毎度おさわがせします』は木村一八、中山美穂主演の不良性感度を売りにしたエロコメホームドラマの第2期シリーズで、宮藤官九郎脚本『不適切にもほどがある!』(TBS)の元ネタのひとつだが、1986年が舞台なのも、このドラマが放映されていた時期を意識していたのだろう。この回のサブタイトルは『空想Kiss』で、主題歌のタイトルそのままだが、内容は「紅白で観られない」ことが前提だったのか、本筋には繋がらない番外編だった。視聴率は8.1%で、通常編成とは思えない善戦だったが、第1期の中盤からたびたび20%台を記録していた人気番組なので、それほど話題にはならなかった。ちなみに、C-C-Bも裏番組の『紅白歌合戦』に初出場していたが、歌ったのは第1期の主題歌で最大のヒット曲である『Romanticが止まらない』ではなく、『Lucky Chanceをもう一度』だった。テレビ朝日は『ビートたけしの元祖マラソン野球生中継』で『ビートたけしのスポーツ大将』の特番だが、川崎球場でたけし、高田文夫、たけし軍団が草野球をしながら騒ぐだけのうら寂しい番組だった。『ビートたけしのスポーツ大将』自体がたけし軍団を売り出すための冠番組だったのだが、翌1986年、たけしは伝説の「FRIDAY襲撃事件」を起こし、活動自粛となる。それでも、1986年と1987年も同じ番組を放送し、神宮球場へランクアップしていたから、案外、費用対効果は良かったのかも知れない。テレビ東京は『大晦日!落語名人会』で、司会は春風亭小朝と四代目桂三木助と大島智子だったが、演目は真面目で地味だった。結局、1985年の『第36回NHK紅白歌合戦』は、前年のビデオリサーチ78.1%(関東地区)から66.0%へ急落し、翌1986年には59.4%へ落ちる。以後、60%台を記録することもなくなったため、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』から19時20分開始の2部構成へ時間枠を拡大し、ロック・ポップス枠の取りこぼしを解消したのだが、今度は裏番組となった『日本レコード大賞』の視聴率が14.0%まで低下した。そして、鳴り物入りで行われた『世界紅白歌合戦』の視聴率は1985年が4.8%、1986年が3.4%で、結局、2年で終了した。バブルの産物とはいえ、費用対効果を考えると成功したとは言い難かったが、各局が裏特番を仕掛ける呼び水となったことから、『NHK紅白歌合戦』の一強体制を崩す役割は果たしたと言えよう。

当初、1989年の1回限りと思われていた『NHK紅白歌合戦』の時間枠拡大は常態化し、TBS『日本レコード大賞』の視聴率は低迷していく。結局、2006年からは、総合格闘技イベント『K-1 PREMIUM Dynamite!!』の枠拡大に巻き込まれる形で大晦日から撤退し、30日開催となった。同局は2001年から紅白裏で『INOKI BOM-BA-YE』を放送していたが(毎日放送は2000年から)、格闘技ブームの影響で運営団体が分裂していた。そのため、2003年は日本テレビ『イノキボンバイエ2003・馬鹿になれ夢をもて』、TBS『K-1 PREMIUM 2003人類史上最強王決定戦 Dynamite!!』、フジテレビ『PRIDE 大晦日スペシャル男祭り2003』と、民放3局が格闘技イベントを中継することになった。周囲で話題になっていたのは、キックボクシングに転向した元横綱・曙のデビュー戦を中継する『K-1 PREMIUM Dynamite!!』だったので、視聴率はそれぞれ、5.1%、19.5%、12.2%だったが、TBSがボブ・サップの右フックで1ラウンド一発KO負けした曙の醜態を映した23時3分の瞬間視聴率は43.0%を記録し、23時台ではじめて『NHK紅白歌合戦』を上回った。皮肉なことにその時刻、紅白で歌っていたのは、13年ぶりに出禁を解かれた長渕剛だった。歌ったのは『しあわせになろうよ』1曲だけで、原曲より20秒長い4分46秒だった。それでも、この回の歌手では一番長い持ち時間なのだが、サップVS曙戦が裏に来ることは事前に知っていたので、NHK側の意趣返しだったのだろう。

到達人数(総合・万人)

2020 6953.2

2021 6081.8

2022 6068.3

2023 5638.3

2024 5516.8