紅白歌合戦

昭和20年12月31日「紅白音楽試合」

歴代再放送

第14回(昭38) H元 H5 H8 H13

第15回(昭39) 映像現存せず

第16回(昭40) H元 H8

第17回(昭41) H元 H14

第18回(昭42) 

第19回(昭43) H15

第20回(昭44) H12 R7

第21回(昭45) 

第22回(昭46) R6

第23回(昭47) H元 H8

第24回(昭48) S62 S63 H2 H5 H9

第25回(昭49) H6 H10

第26回(昭50) S61 H元

第27回(昭51) S61 S62 H6

第28回(昭52) S62 H8 H13

第29回(昭53) H5 H11

第30回(昭54) S61 S63 H2 H7 H12

第31回(昭55) H元 H6

第32回(昭56) H7

第33回(昭57) S62 H5 H8

第34回(昭58) S62 H7 H11

第35回(昭59) H6

第36回(昭60) H2 H7 H15

第37回(昭61) H5 H9 H14

第38回(昭62) H10

第39回(昭63) H8

第40回(平元) H14

第49回(平10) H14


漢数字全盛時代

第20回

  青江三奈 千昌夫 春日八郎 三田明 菅原洋一 坂本九 島倉千代子

  三波春夫 弘田三枝子 美川憲一 舟木一夫 北島三郎 森進一

第22回

  美川憲一 坂本九 青江三奈 五木ひろし 舟木一夫 島倉千代子

  北島三郎 菅原洋一 千昌夫 三波春夫 弘田三枝子 森進一


ちなみに、第20回の1969年は「全員集合」放送開始

翌1970年1月24日、怪物番組「サインはV」の出演者とバレーボール・コント

視聴率はそれまでの15%未満から、一気に27%に達したという(居作昌果)

やっぱり日本の歌は直立不動で歌うものだ

第22回NHK紅白歌合戦 再放送見ました

阪神優勝の2003(平15)年まで歌詞テロップを後付けしてBS再放送されていたが、

今回地上波再放送に當り、歌詞テロップを付けないのが良かった

本放送のまま流そうという意図が感じられる

それにしても、日本で一番最後に流す番組だけに70%以上は当たり前

高視聴率番組だからと言ってきちんと保存するという概念は無かったのだろう

この翌年の第23回になって漸く、局側で綺麗な映像が保存された

・鈴木文弥、御年46歳が70代の爺さんに見える

・高木ブーの顔が「やす子」過ぎた 仲本工事が大オチなのが貴重

・本田路津子さんだけが令和感がある

・都はるみ、普通に童顔アイドルだった キチガ○ファンの声援凄かった 

・水原弘が大谷にちょっと似てた


歌番組は歌手が主役であり、CMの無いNHKは芸人の応援がトイレ・タイムである

「紅白歌合戦ウラ話」を読むと、当時の紅白は出場歌手選考に相当シビアだった事が分かる

一方で、ヒット曲の出ていなかった美空ひばりに対しては、

NHKが「今年も大トリは、ひばりさん以外考えられません」と毎年の様に大トリ

「第22回NHK紅白歌合戦」wikiより

・・・美空ひばりは10月に行われた大阪梅田コマ劇場での1ヶ月座長公演初日を前にした記者会見で「もう2度と紅白の司会をやろうと思いませんね。ヒット歌手じゃないと出場資格がないらしいけれど、それなら私も出られないんじゃないの? 去年の出場メンバーを見て、びっくりしちゃった。当然入らなきゃいけない人が、あの人もこの人も落ちている……こんな人がと思うような歌手が入ってくるでしょう。まともに歌っていられない。こんな紅白には出る気はしません。今年は辞退しようかと思っています」と述べ、・・・(中略)・・・小林旭(ひばりの元夫)は「ついてくるかい」がヒットしたが、初出場ならず。

果耶紅白からちょうど50年前、果の付く審査員「山口果林」が抜群に美人だった

歴代裏番組

昭38 視聴率№1 紅白歌合戦

ちなみに、TV実況は、のちに「サンテレビ・ボックス席」の実況を担当した土門正夫

昭40 審査員に松下電器社主・松下幸之助

昭47 最後の東京宝塚劇場

昭59 驚愕の視聴率78.1% 日本歌謡の分水嶺、第35回NHK紅白歌合戦

キャスター辛坊治郎氏(66)が、ニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」(月~木曜後3・30)に生出演し、NHK紅白歌合戦で忘れられないシーンについて語った。番組では、昨年大みそかに放送された第73回紅白歌合戦の第2部の平均視聴率が、35・3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で、過去最低だった21年から1ポイント増だったことを伝えた。辛坊氏は年末年始に台湾へ行っており、紅白を生で見ていなかったそうで、「誤差の範囲内ですから、長期低落傾向に歯止めかからずという表現が恐らく一番適切なんじゃないかと思います」と分析した。そんな中、辛坊氏は過去の紅白の平均視聴率についての資料に着目。「直近で高かったのが、50年も60年も前には80%台はあったのですが、1984年、78・1%。都はるみラストステージ。ここからぐっと80年代後半に下がっていく」と紹介した。84年の紅白は、引退を発表していた演歌歌手・都はるみが最後のステージに臨んでいた。しかし、その舞台で、辛坊氏も忘れられない出来事が起きていた。「80年に局に入って、84年にはテレビというか放送の仕事をしていましたので、あの時のアナウンサーの失敗というのは、すごく身につまされる、ぞくっとする感覚が」。総合司会を務めたアナウンサーが、都を「美空…」と呼び間違えてしまったことに言及した。「都はるみさんのラストステージで、紹介する一番、聞いているところで、都はるみさんを“美空”と言った瞬間に血の気が…私も引きましたけど、本人の血の引き方は想像できるんですよ」と、失敗したアナウンサーに同情した。80%近くの視聴率だった番組で起きたことだっただけに、当時は大きな話題になった。辛坊氏は、「別にこれを言ったからといって、誰かが死ぬわけじゃないし、大きな不祥事でもないし。謝るべきっちゃ謝るべきだけど、社会的混乱や命にかかわるような間違いではない」としつつも、「この曲で絶対にやっちゃいけない痛恨のミス。だけど、分かるんだわ。すごいプレッシャーの中で国民の8割が見ている、視聴率78・1%ですからね。8000万人くらいが見ている中で、“美空”って、一番やっちゃいけない失敗をするっていう気持ちが、痛いほど分かった」とコメント。「自分が失敗したわけじゃないけど、生涯あの時のゾクッとした感じは忘れないんじゃないかなと思います」と振り返っていた。

時代により1世帯あたり人口が異なるので、世帯視聴率では現在と過去を平等に比較出来ない

東京都の1人だけ見た世帯と、全員が見た世帯が半分ずつあったと仮定し、

個人視聴率を出した

ちなみに、平均視聴率は、

・第23回NHK紅白歌合戦 世帯80.6% → 個人54.8%

・2002FIFAワールドカップTM 日本×ロシア(試合後半)世帯78.0% → 個人56.7%

毎分最高視聴率は、

・第14回NHK紅白歌合戦 五月みどり 世帯85.3% → 個人54.9%

・第35回NHK紅白歌合戦 都はるみ 世帯84.4% → 個人58.5%

・2002FIFAワールドカップTM 日本×ロシア 世帯81.9% → 個人59.6%

となり、W杯サッカー歴史的初白星の瞬間が紅白を超えてTV史上最高

到達人数(総合・万人)

2020 6953.2

2021 6081.8

2022 6068.3

2023 5638.3

2024 5516.8


誰も文句がつけられない歌い納め(大トリ)となった楽曲は、以下の5曲ぐらいだろう

昭39 美空ひばり「柔」(195万枚)     →× 白組優勝

昭51 都はるみ「北の宿から」(143万枚)  →○ 紅組優勝

昭54 八代亜紀「舟唄」(38万枚)      →○ 紅組優勝

昭55 八代亜紀「雨の慕情」(56万枚)    →○ 紅組優勝

平15 SMAP「世界に一つだけの花」(313万枚)→○ 白組優勝


つまり、それだけNHKが天邪鬼で、これらの楽曲はそれでも大トリにせざるを得なかった

そこまでの国民的な楽曲が無くなったという事

北島三郎「まつり」(5万枚)が初めて歌われた年の白組トリは森進一「北の螢」

演歌としては19万枚のスマッシュ・ヒットで、これがトリに相応しかっただろう

最もこの年は引退・都はるみ「夫婦坂」(38万枚)が大トリになるが、

天邪鬼のNHKが引退騒ぎにあれほど大々的に乗じたのも紅白史上唯一

チェッカーズ解散など、今では考えられないほど早い時間帯に済ませた

中央日報日本語版

1年最後の日、全国津々浦々の国民が同じテレビ番組にチャンネルを合わせ同じ歌を一緒に歌って新年を迎える? いまの基準ではぞっとする話に聞こえるが、日本ではかなり長い間「実際状況」でした。毎年12月31日午後7時30分に始まり4時間以上にわたり進行される公営放送NHKの「紅白歌合戦」の視聴率は1980年代まで70~80%に達したからです。1951年に始まり実に70年にわたり続いた紅白歌合戦は日本人の年末の大型イベントでしょう。10年ほど前までも11月から紅白歌合戦の司会者と出演陣発表→傍聴客募集・抽選→曲名公開→審査委員団発表など関連ニュースで沸き返りました。伝統歌謡の演歌歌手からアイドルグループまで、1年間愛された歌手が一堂に集まる席、紅白歌合戦出演は日本の音楽家にとってスターになったことを正式に認められる「夢の舞台」でした。歌手を女性は「紅組」、男性は「白組」に分けて対決を広げる構成で、進行者の古典的な衣装と枠にはまったコメント、華麗だが奇妙にやぼったい舞台装置まで「伝統」を続けます。韓国人にもおなじみの「蛍の光」をみんなで一緒に歌うことで終わります。ネットフリックスやアマゾンプライムなど新たなプラットホームとコンテンツがあふれる時代、「伝統」で人々の関心を引くのは難しいです。かつて紅白歌合戦は日本国内の韓流熱風の指標でした。2002~2007年には韓国歌手BoAが6年連続で舞台に上がり、東方神起も2008~2009年に出場しました。第2次韓流ブームが起きた2011年には東方神起、KARA、少女時代の3チーム同時出演で話題になりました。2012年に李明博(イ・ミョンバク)元大統領の独島(ドクト、日本名・竹島)訪問後に韓日関係が冷え込み、韓国歌手が紅白歌合戦から姿を消します。5年間の空白を経て2017~2019年に日本人メンバーがいるTWICEが連続出場しました。2018年にBTS(防弾少年団)が日本で人気を呼び紅白歌合戦出場に対するファンの期待も大きくなったが、「原爆Tシャツ」問題で実現できませんでした。今年も日本はBTS熱風でした。オリコンの集計によると日本で発売されたBTSのアルバム『BTS,THE BEST』は12月中旬まで99万3000枚が売れ、年間アルバム販売順位1位を記録しました。日本で外国人アーティストが年間アルバム販売1位に上がったのは1971年のエルビス・プレスリー、1984年のマイケル・ジャクソン以来BTSが初めてというのでどの程度の人気なのか想像が可能です。しかし今年の紅白歌合戦出演者名簿にBTSはありません。韓国発だが全員日本人メンバーで構成されたNiziUだけ名前を上げました。「視聴者の多様な要求を考慮する」というのが放送局側の論理だが、実際の日本国民の人気を無視して閉鎖的な選択を繰り返した結果が紅白歌合戦の没落で現れたという指摘は避けられそうにありません。


PR TIMES

LINEリサーチは、13歳以上の男女(約55万人)を対象に、「年末年始の過ごし方&来年に期待すること」に関する調査を実施した。年末年始の過ごし方を聞いたところ、1位は「年越しそばを食べる」(52.4%)、2位は「お雑煮を食べる」(39.7%)、3位は「紅白歌合戦を見る」(38.5%)、4位は「初詣(はつもうで)に行く」(36.7%)、5位は「おせち料理を食べる」(35.1%)だった。年代別に年末年始の過ごし方を聞いたところ、例年同様「年越しそばを食べる」が20代以上の年代で1位だった。10代は「紅白歌合戦を見る」(46.9%)が他の年代に比べて高かった。60代以上は他の年代に比べ、1位の「年越しそばを食べる」(62.9%)、2位の「お雑煮を食べる」(53.5%)、3位の「おせち料理を食べる」(48.2%)など、食関連の項目の割合が高い傾向が見られた。22年はどんな年になると思うか聞いた。「とても良い年になると思う」が10.4%、「良い年なると思う」が25.7%、「やや良い年になると思う」が23.3%と、合わせて59.4%が良い年になるだろうと答えた。良い年になると答えた割合は昨年より10.3ポイント増加した。


松谷創一郎(ジャーナリスト)

人気低迷が叫ばれて久しいが、ここ15年ほど『紅白』の視聴率は40%前後(第2部)で推移している。(地上波)テレビ離れが進んだ2010年代以降においては、かなり健闘していると言えるだろう。今年で72回目を迎えるそんな『紅白』にはいくつかの転換点があった。戦後間もない1951年からラジオで放送が始まり、1953年の初のテレビ放送、1973年以降のNHKホールでの開催、1989年の2部制への移行(放送時間の拡大)、そして昨年のコロナ禍における無観客開催などだ。現在に続く歴史において大きな転換だったのは、やはり2部制への移行だろう。その最大の要因は、1984年をピークとした視聴率の急落だ。1989年には、NHKの島桂次会長(当時)が「本当は今年で最後にして、なくしたい気持ちだ」と述べて存続が危ぶまれた。80年代の『紅白』の背後には、音楽とテレビを取り巻く日本社会の変化があった。あのとき、『紅白』になにがあったのか──。

1984年、引退する演歌歌手・都はるみの花道として『紅白』は大きな注目を浴びた。クライマックスは、大トリとして都が「夫婦坂」を歌い終わった後に訪れた。観客席から「アンコール」が連呼され、司会の鈴木健二アナウンサーは都の説得のために「私に1分間、時間をください」とスピーチした。そして、周囲の歌手たちが都を囲んで「好きになった人」を涙を流しながら大合唱した。この年の視聴率は、78.1%を記録した。しかしその後振り返れば、それは『紅白』が70%台に達した最後の年でもあった。翌年から視聴率は急落する。1985年は前年から12%減の66.0%、1986年ははじめての50%台となる59.4%、そして1988年には53.9%にまで下がった。たった4年で視聴率が約24%も落ちた。1989年の島会長の発言も、歯止めがかからない視聴率急落を踏まえてのものだった。

この『紅白』の人気低迷の背景には、80年代のテレビと音楽をめぐるメディアの大きな変化があった。まずテレビにおいて生じたのは、受像機側の技術的な進化だ。具体的には、リモコンとビデオデッキ(VTR)の普及だ。リモコンは、1980年頃から一般に普及し始める。具体的な普及率は確認できないが、赤外線リモコンを使ってカチャカチャとチャンネルを替える“ザッピング”が定着したのはこの時代からだ。また、ビデオデッキが急速に普及したのも80年代だった。同じ放送時間の裏番組を録画したり、残しておきたい番組を録画したり、あるいは録画した番組の好きな部分だけを観たり、リアルタイム以外のテレビ視聴が広がっていった。1984年は18.7%だったビデオデッキの普及率は、1988年には53.0%にまで急上昇する。1985年は、日本テレビが裏番組として2夜連続ドラマ『忠臣蔵 後編』を放送した。『紅白』と完全に時間帯がかぶるものの視聴率は15.3%となり、その後は他局も裏番組に力を入れるようになる。こうしたなかで『紅白』がビデオ録画の対象となったことは十分に考えられる。裏番組がヒットするようになったのも、ビデオデッキが普及したからこそだ。テレビリモコンやビデオデッキと同じ時期に、音楽メディアでも大きな変化が生じた。それがCDの普及だ。それまでいちいち盤面をひっくり返す必要があったレコードに対し、CDは「コンパクト・ディスク」という名のとおり非常に扱いやすいものだった。CDの統計は1984年からしか残されていないが、その普及はあっという間だった。CDソフトの生産金額は1984年は全体の5%ほどだったが、1987年にはレコードのシェアを上回るほどの急成長を見せる。たった4年であっという間にマーケットを塗り替えてしまった。それは80年代に入って停滞傾向を見せていた音楽産業にとっても大きな起爆剤となった。1984年のソフト生産金額は約2741億だったのに対し、1988年には約3430億円にまで伸長する。そして、これ以降も1998年に約6075億円になるまで音楽産業は右肩上がりの成長を見せる。しかし、そこで気になるのが『紅白』とCDの関係だ。前述したように、『紅白』は1984年をピークに視聴率が急落する。つまり、CDが普及して音楽産業が成長していくのに対し、『紅白』の視聴率が下落していく。言い換えれば、音楽人気は拡大しているのに、音楽番組の人気が落ちていく──80年代中期、そんな現象が起きていた。1985年度のトップはチェッカーズ「ジュリアに傷心」(発売は前年11月)の70.2万枚、86年度は石井明美「CHA-CHA-CHA」の53万枚、87年度は瀬川瑛子「命くれない」の42.2万枚と、ついに50万枚を割ることになる。しかも「命くれない」にいたっては、前年3月発売だった曲がロングセラーで火がついた結果だった。年間ヒットがミリオンを回復するのは、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」が130万枚を越した1990年のことだ。この時期、さかんに指摘されたのは「国民的ヒット」の不在だ。老若男女だれもが口ずさめるような曲がなくなり、音楽が多様化した──しばしばそう分析された。それはデータからも裏付けられる。年間上位10曲の累計売上枚数は、1986~87年に500万枚を割っている。その一方で音楽産業全体は拡大しているので、一極集中のヒットが生まれにくくなっていたことは間違いない。こうした志向の多様化は、音楽に限らず日本社会に漂うひとつの思潮でもあった。たとえば1985年の「ユーキャン新語・流行語大賞」では、新語部門・金賞に「分衆」が選ばれた。これは、日本人がもはや全体で同じような傾向を持つ「大衆」ではなく、さまざまな価値観を持って多様化した「分衆」だとする広告代理店のマーケティングタームだ。こうして「国民的ヒット」=「大衆歌謡」が成立しない時代が到来した。

80年代中期から後半にかけては、若者を中心に音楽志向の変化が見られる特徴的な現象が複数確認できる。ひとつは、1985年7月にデビューしたおニャン子クラブの人気だ。フジテレビの夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』から生まれたこのアイドルグループは、番組内のオーディションコーナーで毎週ひとりずつメンバーを増やしていく前代未聞のシステムだった。無論のこと、これが後のAKB48や坂道グループの原型であり、手掛けたのも同じく秋元康だ。大ヒットが生まれにくかったこの当時、おニャン子クラブはヒットチャートを席巻した。とくに一年を通して活動した1986年は、おニャン子クラブやその派生ユニットとソロメンバーの曲が、オリコンランキングで47週中31週で1位となった。アイドルに歌やダンスのパフォーマンスを求めず、テレビを活用しながらアイドルシステムの内幕も暴露したおニャン子クラブは、中高生男子に喝采をもって受け入れられた。もうひとつは、バンドブームだ。80年代中期から90年代前半にかけて、ロックを中心とした音楽が若者に広く好まれるようになる。それは単に聴くだけでなく、若者たちが自分たちでバンドを組んで演奏するブームでもあった。そのなかから生まれたのが、プリンセス・プリンセスやたま、ブルーハーツ、ユニコーンなどだった。この動きに率先して追従し、そして活性化させる役割を果たしたのは雑誌メディアだった。86年に『PATi・PATi』(CBS・ソニー出版)と『ロッキング・オン ジャパン』(ロッキング・オン)が創刊され、『宝島』(JICC出版局)は判型を大きくした。そして、88年にはバンドブームを象徴するような雑誌『バンドやろうぜ』(JICC出版局)が創刊される。その誌名が「音楽やろうぜ」でも「ロックやろうぜ」でもなかったところが、コミュニケーションツールでもあった当時のバンド人気を示唆している。中高生を中心とする80年代後半の若者とは、1971~74年に年間200万人以上が生まれた団塊ジュニアを中心とする。彼/彼女らは従来の「歌謡曲」ではなくバンドサウンドに向かった。アイドルとバンドのファン層は明確に異なっていたが、80年代後半から90年代前半にかけては後者が前者を徐々に侵食していった。おニャン子クラブは1987年9月に解散し、1989年以降はジャニーズの光GENJIとバンド形式の男闘呼組の人気にも陰りが出始める。その一方でバンドの大ヒットが相次ぎ、まるでアイドルかのように支持を集める。実際、1989年に「Diamonds」と「世界でいちばん熱い夏」で年間ランキングトップ1・2位を占めたプリンセス・プリンセスはもともとアイドルグループ・赤坂小町であり、1990年に「今すぐKiss Me」が大ヒットしたLINDBERGのヴォーカル・渡瀬マキももともとアイドル歌手だった。

この時期、テレビでは『紅白』以外の人気音楽番組が相次いで姿を消していったのだ。なかでも象徴的だったのは、80年代の音楽番組の中心にあったTBS『ザ・ベストテン』が1989年9月に終了したことだ。変化が現れたのは1988年10月頃からだ。この月、急激に視聴率が下落してはじめて10%を割った。すでにおニャン子クラブは解散していたが、デビュー2年目の光GENJIは全盛期であり、長渕剛の「乾杯」がスマッシュヒットとなった年だ。『紅白』の視聴率が急落して2部制になるのはこの翌年からだ。日本テレビの『歌のトップテン』は1990年3月に、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』もジャンル別に分化した後に1990年にすべて終わった。

80年代中期まで、放送業界-音楽業界-芸能界のスクラムで構築された歌謡曲は、年末の『紅白』を頂点として“歌謡界”を成立させてきた。都はるみの引退が大きく盛り上がったのもそうした時代の産物だ。そして、この“歌謡界”が80年代中期から後半にかけて段階的に崩れていき、『紅白』も2部制へ移行する。しかし、歌謡曲が不人気になってもポピュラー音楽がなくなったわけではない。歌謡曲の人気減退と入れ替わるように登場したのは、J-POPという新たな概念だった。テレビリモコン+ビデオとCDの普及、音楽志向の多様化と音楽番組の低迷、そして歌謡曲からJ-POPへの移行と『紅白』2部制の始まり──80年代後半に日本のテレビと音楽を取り巻く状況は大きく変わった。

朝ドラ主演・ヒロイン

近年の単独主演で紅白出演がならなかったのは、

朝ドラの評判も芳しくなかった芳根京子のみであったが、

天才・趣里がまさかの紅白辞退となった

尚、愛知県出身の朝ドラ主演・ヒロインは、開始以来60年以上ゼロとなっている


第72回の審査員6名は、上皇ご成婚の年、昭和34年以来62年ぶりの少なさ

(ちなみに、女優の審査員がいなかったのは昭和34年が最後)

6票中1票という事だから、1人あたりの1票の重さも62年ぶりという事になる

女優初の紅白審査員が昭和31年の河上敬子(医師・女優)

芦田愛菜が医師になって審査員になる可能性もあったが、

21世紀生まれ紅白審査員第1号は清原伽耶となったため、

「20世紀生まれ女優、21世紀生まれ女優共に紅白審査員第1号が医師」とはならなかった

河上敬子(昭和6年3月11日生まれ、令和3年末現在90歳)

清原伽耶と同じく、イニシャルがK・Kだ

奇しくも、顔は紅白出演が無かった芳根京子に似ている